シンザンを知る人は言う。「シンザンは強かった…」
 僕はシンザンを知らない。
 ルドルフを知る人は言う。「ルドルフは強かった…」
 僕はルドルフを知らない。

 今までずっと羨ましかった。
 僕が知る唯一の三冠馬はナリタブライアンだった。
 ナリタブライアンは強かった。 しかし、そのころ競馬に興味を持ち始めたばかりの僕には、 他人に語れるほど、ナリタブライアンの「強さ」のことは分からなかった。

 圧倒的な力で春の二冠を制したサラブレッドの三冠達成を目撃するために、 京都競馬場に集まった観衆は 13 万 6701 人。 大観衆などと言う言葉が陳腐になるほどの目撃者を前にして、 二冠馬ディープインパクトは、これまでのレースでは見せたこともないような すばらしいスタートを切った。
 しかし、これが凶と出る。
 前に馬を置くことができずにディープインパクトはどんどん加速していく。 鞍上 武 豊 騎手は必死になって手綱をひくが、お構いなしにどんどん前へ前へと進出していく。
 一周目、メインスタンド前まで来ても、鞍上が引く手綱に逆らうように ディープインパクトは口を割って走っていた。 やっとメインスタンド前の直線の出口付近になって、 ディープインパクトは鞍上と折り合った。 しかし、そこはいつもの定位置ではない、隊列の三分どころ、ずいぶんと前だった。
 常識的に 3000m という長丁場のレースにおいて、 折り合えずスタミナをロスしていくことは最後の最後に致命傷になる。 このことがゴール前で、どのような結果をもたらすか…そのことが頭によぎり続け、 辺りの音を消していった。
 レースは淡々と進む。二周目の坂に向かって長かった隊列を徐々にではあるが縮めていき、 坂の頂上にさしかかって下りに向かうと、更にその度合いを早めていった。
 最終コーナー手前、ディープインパクトが動いた。
 馬任せで上がっていき、ディープインパクトを取り囲んでいた集団の先頭に外から並んでいった。 しかし、本当の先頭はまだ五馬身以上先にいた。 ディープインパクトが最後の直線に入って、悠然とまっすぐゴールを向いた。 本当にゆっくりと、一寸の無駄もなく最短距離でゴール板まで 突き抜けるために確認しているかのようだった。
 前半かかっていたシーンが頭をよぎる…「遅い!」…のど元までその言葉が出かかった。
 単独先頭で直線を駆け上がっていたアドマイヤジャパンとの差は、 通常であれば致命的な差であった。事実、他の馬は届かなかった。
 しかし…「時代が悪かった」…アドマイヤジャパン陣営が 後に残したコメントがすべてを物語る。
 競馬を始めてもっとも長い 20 数秒だった。 京都の直線がこれほど長く、これほど静かだったことはこれまでなかった。

 勝ちタイム 3'04"6 、上がり 3F 33.3 秒。
 七戦全勝、史上二頭目無敗三冠達成…一点の曇りも、 無論傷などあるはずもない…パーフェクトクラウンを戴いたサラブレッドの名は 「ディープインパクト」

 今までずっと羨ましかった…でもこれからは違う。
 「ディープは強かった…」
 何年経っても、きっとそう自信を持って言えると思える。
Turf Watch より)